スーパーのある社会の責務


 1962年5月ごろ、米ソは冷戦の只中で、どちらの体制が優れているかの宣伝合戦を繰り広げていました。ケネディ米大統領は当時、業者の大会にこうメッセージを寄せています。

 「米ソの違いは、スーパーマーケットがあるかないか。1時間で買えるバスケットの中身の違いこそが、米ソの違いである」  

 この言葉に感動したダイエー創業者の中内功氏が、日本にスーパーを一気に普及させたエピソードはよく知られています。  

 その2か月前、ケネディ大統領は歴史的教書を公表していました。安全である権利、知らされる権利など、消費者の権利を初めて唱えた特別教書です。  

 スーパーが商品を大量供給する社会では、消費者の権利擁護が不可欠ととらえていたのです。そんな「スーパーのある社会」にとっても、コロナ禍は初の試練です。  

 混雑するスーパーの現状に、東京都はコロナ禍対策として「3日に1度」の利用を求めました。一方、スーパー側からは従業員の感染不安、客のクレーム対応での疲弊などによる「スーパー崩壊」の危機を訴える声まで上がっています。 

「ステイホーム(家にいよう)」が合言葉となった今、地域の暮らしを支える補給基地となったスーパーです。そこを感染や疲弊から守る取り組みへの協力は、消費者の権利の筆頭である「安全」を守ることにほかなりません。  

 ケネディ教書の20年後、国際消費者機構は消費者の責務も定めています。その一つが「社会的関心」で、消費行動の他者、とくに弱者への影響を自覚する責務でした。これは、「スーパーのある社会」のモラルの基本でしょう。  

八丁堀のオッサン

八丁堀に住む、ふつうのオッサン。早稲田大学政治経済学部中退。貿易商社勤務のあと雑誌編集者、『月刊文芸春秋』、『週刊ポスト』記者を経て、現在jジャーナリストとして文字媒体を中心に活動。いろいろな面で同調圧力 にとらわれ、なにかと〝かぶく〟ことが少なくなっているニッポンの風潮が心配。

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