「優しくしようね」から逃げなかった強い女性が旅立った

  ある日、レコード会社のゴミ箱の中に歌詞が捨てられていました。それをたまたま見かけた女性が拾い上げて読んだところ、可哀そうな戦災孤児の歌でした。  

 女性は、関係者にこうかけ合いました。 

「これをどうしても歌いたい」  

 これが、ヒット曲「ガード下の靴みがき」(1955年)の誕生に繋がりました。  

 ゴミ箱の曲を拾い育てた人が、先日、93歳で亡くなった歌手で女優の宮城まり子さんです。  

 宮城さんの父親は、生活の苦しいジャズマンでした。彼女は弟さんと2人で、大変な苦労をして音楽の道に入っています。戦後、巡業の日々だったといいます。  

 彼女が体の不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立したのは、障害者というだけで教育が受けられない当時の現実と自身が子ども時代に経験した悲しみがありました。  

 彼女は当時、弟さんとこんな約束をしていたといいます。 

「泣いている子に優しくしようね」  

 それが、学園の設立に繋がりました。  

 設立当初、俳優の道楽と見られ、苦労の連続だったといいます。彼女は汚物のついた何十枚もの下着を素手で泣きながら洗っていました。干し終えた途端、ロープが外れて全部落ちたこともあったそうです。 

「神様、私は嘘つきです。優しくなんかありません」  

 心のなかで、そう叫びながら逃げ出したくなる日もあったといいます。 

 学園の子どもたちには、こう教え続けました。 

「優しくね、優しくね、優しいことは強いのよ」  

 誰も気に留めなかった存在に手を差し伸べ、「優しくしようね」から逃げなかった強い人が旅立ちました。合掌!  

八丁堀のオッサン

八丁堀に住む、ふつうのオッサン。早稲田大学政治経済学部中退。貿易商社勤務のあと雑誌編集者、『月刊文芸春秋』、『週刊ポスト』記者を経て、現在jジャーナリストとして文字媒体を中心に活動。いろいろな面で同調圧力 にとらわれ、なにかと〝かぶく〟ことが少なくなっているニッポンの風潮が心配。

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