セレンディピティもスピリチュアル

 スピリチュアルとは、心を研ぎ澄まして「人知を超えた意思」の存在を感じ取ることでもあります。

 人は、古来から目に見えない何かへの信仰とともに生きてきたところがあります。たとえば自然が相手なら燦々と輝く太陽や夜空に浮かぶ月、屹立する山、大きな石、湧き水などを聖なる存在と信じてきたのです。

 そうした聖なるものが神話を生み出したり、生や死の本質について説いてくれたりします。それらが人の生活、人生にとっては必要だったということです。

 むろん、科学的な世界観では神話を素直に信じることができないかもしれません。実際に、これまで神話の正当性が問われてきたことも事実です。同時に、それは人生に意味を与えてくれる心の基盤を失うことでもあったのです。

 生きていると、こんな疑問が湧いてきます。


 いったい自分は何者なのだろうか? 

 生きている意味は何なのだろうか? 

 死んだらどうなるのだろうか?  


 そうした根源的な不安や人生の空虚さに向かい合うとき、ふとスピリチュアルな気持ちになることがあります。

 解き明かすのが困難と思えるような疑問に立ち向かう手段として、絶対的な何かを探し求めるのは自然な流れなのかもしれません。

 最終的に、苦肉の策としてスピリチュアルな絶対神を創造してきたのが人の歴史の一面でもあるのです。

 人は、そうした絶対紳の下で何とか苦難を乗り越えながら生きているのではないでしょうか? 

 スピリチュアルな気持ちになっていると、何かが大きく動き出すことがあります。たとえば仕事や受験勉強に真摯な気持ちで取り組んでいると、夢や目標に向かって何かが後押ししてくれることがあります。

 サクセスストーリーとして語られるセレンディピティ(Serendipity)も、そうしたスピリチュアルなものかもしれません。

 セレンディピティとは、何かを探しているときにそれとは別の価値があるものを偶然見つけること。ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることを指しています。 

八丁堀のオッサン

八丁堀に住む、ふつうのオッサン。早稲田大学政治経済学部中退。貿易商社勤務のあと雑誌編集者、『月刊文芸春秋』、『週刊ポスト』記者を経て、現在jジャーナリストとして文字媒体を中心に活動。いろいろな面で同調圧力 にとらわれ、なにかと〝かぶく〟ことが少なくなっているニッポンの風潮が心配。

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