直訴の無意味さを噛み締める
「糞尿譚」で芥川賞を受賞し、兵隊作家として国民的人気を博した火野葦平は太平洋戦争の末期、戦争指導者に面と向かって作戦の無謀や前線の士気低下など深刻な問題を直訴しています。
「インパール作戦従軍記-葦平『従軍手帖』」によると、火野は1944年8月28日、ビルマ(現ミャンマー)で郷土部隊「菊兵団」の田中新一師団長から杉山元陸相宛てなど2通の手紙を託されています。
田中師団長は、このとき火野にこう依頼しています。
「大本営に行ったら直ぐに、その足で大臣に会って、よくこちらのことを話してくれ」
約1か月後の9月25日、火野は大本営に到着して面会が実現しています。
しかし、「従軍手帖」には面談の内容についてまったく触れられていません。火野が具体的な〝やり取り〟を明かしたのは、「火野葦平選集」の巻末に自ら書いた「解説」のなかです。
それによると、ビルマから帰国する機上で意見書を仕上げています。
「インパール作戦が無謀きわまる強引作戦であったこと」
「前線の将兵の質の低下、特に参謀や部隊長の統率力の欠如」
「意地や面目や顔などの固執によって兵隊が犬死させられている」
そう訴え、このままだと「由々しき結果を生じる」と結んでいます。
軍の作戦や方針に公然と異を唱えることは当時、覚悟と勇気が求められ、さすがに「負ける」という言葉は使えないので、そんな言い回しをしたといいます。
火野は、そのときのことを「逮捕されても、投獄されても、処刑されてもよい」と考えていたと回顧しています。
火野は、この意見書に基づいて直訴しています。
一方、杉山陸相はこう述べています。
「御苦労。よくわかった。しかし、望みは充分ある。肉を斬らしておいて、骨を斬るんじゃ」
同時に、両手で刀を持つ格好とともに一太刀振り下ろすしぐさをしたといいます。
火野は、じっと無念と落胆を噛み締めています。
「そんな原始的な精神力ではもう間に合わなくなっているのに、軍の中心となる責任者が、まだそんなことをいっているのが、私は悲しかった」
兵隊3部作「麦と兵隊」などで流行作家となりましたが、戦後は戦争協力者として公職追放を受けています。
60年1月24日、こう書き残して自ら命を絶っています。
「敗北の巨斧を背に衝かれた私としては、自分の暗愚さにアイソがつき、戦争中の言動を反省して、日々が地獄であった」
煉獄に生きた火野に合掌・・・。
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