昭和という時代への愛と恨みの歌


「天使の誘惑」や「石狩挽歌」、「人形の家」などを手がけた作詞家のなかにし礼さんが昨年12月23日、82歳で亡くなっています。

 俳優の石原裕次郎さんは、なかにしさんに歌手の黛ジュンさんの歌の作詞を依頼したときこう言ったといいます。

「売れなければ売れるまで、売れれば売れなくなるまで書いてくれ」

 石原さんは、なかにしさんにとって作詞の仕事を始めるきっかけを与えてくれた大恩人といわれています。

 なかにしさんは、黛さんの曲を作詞するに当たって「ハレルヤ」という歓喜の言葉がひらめいた途端、絶対にヒットすると確信したそうです。

 実際、喜びの言葉で失恋を歌う「恋のハレルヤ」は恋が受け身ではない歌として大ヒットしています。

 なかにしさんは旧満州で家族と終戦を迎え、死と隣り合わせの凄絶な体験の末に引揚げせんが停泊している大連に行き着いています。

 当時、8歳の目に焼きついたのは大連の青い空と海だったといいます。ハレルヤという言葉には、8歳のときに見た引き揚げ船の出発港の情景が込められているのでしょう。

 なかにしさんは近年、インタビューでこう語っています。

「私の歌は、戦争体験の一種の記録です。その最初の作品が、この『恋のハレルヤ』です。私の歌は、すべて昭和という時代への愛と恨みの歌です」

 歌手の弘田三枝子さんの「人形の家」では、歌詞に国に見捨てられた旧満州の日本人の絶望を織り込んだといいます。

 終戦直後に流行っていた「リンゴの唄」は、底抜けに明るい曲調と罪のない歌詞が苦手だったそうです。明るい時代へ向かう当時を象徴するような曲ですが、聴くのが悲しかったといいます。

 その歌は1946年、満州からの引き揚げ船のなかで船員に教えてもらったそうです。 

 そのとき、生きるか死ぬかの体験をした満州に取り残された自分たちのことを忘れて、日本ではもうこんなに明るい歌を歌っているのかと思ったそうです。

「リンゴの唄」が明るく励ます曲なら、なかにしさんの悲しみを知る歌詞は孤独な人の背中を静かにさすり、「自分も同じだよ」と慰めていた気がします。

八丁堀のオッサン

八丁堀に住む、ふつうのオッサン。早稲田大学政治経済学部中退。貿易商社勤務のあと雑誌編集者、『月刊文芸春秋』、『週刊ポスト』記者を経て、現在jジャーナリストとして文字媒体を中心に活動。いろいろな面で同調圧力 にとらわれ、なにかと〝かぶく〟ことが少なくなっているニッポンの風潮が心配。

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