哲学の匂いが感じられない菅首相


 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、フィロソフィアという言葉を定着させています。フィロソフィアとは、もともと「知を愛する」という意味です。

 ソクラテスは、自身をアテナイという馬に纏わりつくアブに例えています。それは彼が国教を否定し、青少年を堕落させるとして告発された裁判でのことです。

 当時、アブが馬を刺して眠らせないようにアテナイの覚醒のために人々に問答を挑み、説得し、非難し続けるのだと弁明しています。

 それが〝賢者〟たちの無知について問答を通して暴き、自身は「自分の無知を知る者だ」と宣言した哲学者の祖国愛だったのです。

 しかし、アテナイ市民は煩いアブを叩くようにソクラテスに死刑を判決し、ソクラテスは法に従い毒杯をあおります。

 この〝アテナイのアブ〟は、常識に安住する者への真理の探究者による批判や挑発の例えになっています。

 だが、それを好まない者は今日もいます。

 菅首相の日本学術会議が推薦した会員候補6人を任命しなかったことについての説明は、その典型的なものでしょう。

 とにかく、説明が面妖なのです。「総合的、俯瞰的」という定型句、6人の除外前の候補者名簿を「見ていない」との弁明、そして「多様性」という言葉の使用です。

 これでは、いつ何を基準にして6人を任命不適と判断したのか不明のままです。

 今後、菅首相は国会でも野党というアブに辻褄が合わないところを刺されるでしょう。

 ソクラテスの末裔を自負する真理と知の探究者たちも、そう簡単にはこの人事をめぐる問答から首相を解放してくれるとも思えません。

八丁堀のオッサン

八丁堀に住む、ふつうのオッサン。早稲田大学政治経済学部中退。貿易商社勤務のあと雑誌編集者、『月刊文芸春秋』、『週刊ポスト』記者を経て、現在jジャーナリストとして文字媒体を中心に活動。いろいろな面で同調圧力 にとらわれ、なにかと〝かぶく〟ことが少なくなっているニッポンの風潮が心配。

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