〝べからず、べからず〟の忖度と自粛
太平洋戦争開戦の前年、東京の落語家たちがみずから「禁演落語」を制定し、上演を封印しています。
当時、すでに戦時体制で、芸能も〝べからず、べからず〟の自粛を求められていました。
落語家たちが約500の演目から時局に〝ふさわしくない〟として選んだのは、遊郭や浮気などをあつかった53演目でした。
まさに、お上への忖度です。
なかには、今でもよく演じられている「明烏(あけがらす)」「居残り佐平次」「紙入れ」といった名作が含まれていました。
ただ、当局は「改訂してできるものは適当にやりなさい」といった反応だったといいます。
まさに、自粛の〝行き過ぎ〟だったのでしょう。
開戦の年の10月30日、封印の証しとして建立された「はなし塚」が除幕されています。それは、今も東京・浅草にほど近い本法寺に建っています。
碑の裏面には、こう刻まれています。
「自粛協定して職域奉公の実を挙げたり」
時局の様子が、濃く浮かんでくる言葉です。
東京大空襲では、本法寺の本堂を初めとして周囲は焼け野原になっています。ところが、「はなし塚」は奇跡的に無傷だったのです。
この塚の封印が解かれたのは、終戦から約1年後でした。多くの命が失われた空襲と、自由な表現が奪われた時代の生き証人でしょう
戦争に限らず、コロナ下で文化芸術は自粛を強いられています。うかうかしていると、また〝べからず、べからず〟の時代がやって来ないとも限りません。
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