ファッションの都パリが高田賢三にチャンスを与え、育てた


 1965年の夏、先日亡くなったファッションデザイナーの高田賢三さんはパリに来て半年が経ち、生活苦からなすところなく日本への帰国を決意していたといいます。

 帰国する前にせっかく描いたファッション画を誰か専門家に見てもらおうと、ルイ・フェローの店に飛び込みました。

 すると、居合わせたルイの奥さんが5枚買ってくれました。気をよくした高田さんは、ファッション誌「エル」の編集部へも行きました。そこでは、倍の単価で10枚が売れたといいます。

 わずか10日余りの間に、訪れた専門誌や百貨店、既製服メーカーは、ことごとく言葉もたどたどしかった無名の日本人青年の絵を買ってくれたのです。

 つまり、ファッションの都パリが求めていた才能を見い出したのです。

 5年後、高田さんは同地に店を開いています。

 初のコレクションでは、立体的な西欧の服飾に直線と平面からなる日本の伝統美を取り込んで衝撃をもたらしています。

 当時、パリのファッション界では〝異質〟が求められていたのでしょう。

 高田さんは、世界各地の衣装にアイデアを得たフォークロア(民俗調)など多文化的なモチーフと華やかな色遣いで時代の求めるものに応えてきています。

 パリ市長は、こう哀悼の意を表しています。

「パリは今日、その息子の死を悼んでいる」

 ファッションの都パリは高田さんの才能に活躍の舞台を与え、大きく花開かせたことだけは間違いないでしょう。

八丁堀のオッサン

八丁堀に住む、ふつうのオッサン。早稲田大学政治経済学部中退。貿易商社勤務のあと雑誌編集者、『月刊文芸春秋』、『週刊ポスト』記者を経て、現在jジャーナリストとして文字媒体を中心に活動。いろいろな面で同調圧力 にとらわれ、なにかと〝かぶく〟ことが少なくなっているニッポンの風潮が心配。

0コメント

  • 1000 / 1000